No.10 親鸞における浄土往生は現世ではなく来世(死後)である

 

 

2019/08/28

 

 

はじめに

 

 

 私は二年ほど前に『浄土往生は死後か否か』(http://kichun.kitunebi.com/jodo.html)という表題の論文を執筆した。この論文は親鸞の往生理解が死後のものであるという結論であるので、私が所属する真宗大谷派からは相当批判されることが想定された。というのも、大谷派における現代の教学においては、来世往生は誤りで、往生は現世のものであるというのが標準的な理解であるからである。にもかかわらず、肯定的な評価をいくつか頂いた。また、内容は正しいかどうか判断できないまでも、主張そのものは理解してもらえたという人は意外と多かったと思う。もちろん、批判的な意見もいくつか頂いた。本稿では、頂いた批判に答えることを目的とするものであるが、併せて、私自身が往生をどのように了解しているかということについても述べていきたいと思う。

 

 

第一章 親鸞が浄土を来世と捉えた根拠

 

 

ここでは、先ず、私が親鸞の浄土理解が来世であると考える根拠を簡単にまとめてみる。

 

理由その1

 

親鸞が拠り所とした経典の浄土三部経(『阿弥陀経』、『無量寿経』、『観無量寿経』)に説かれる浄土は、死後の世界としか描かれていない。このことは、『浄土往生は死後か否か』の「第一章 浄土三部経に説かれる浄土往生」で解説した。ここでは、浄土教内で最も読まれる『阿弥陀経』における浄土往生についてだけ述べることにする。

 

舍利弗、若有善男子善女人、聞阿彌陀佛、執持名號、若一日、若二日、若三日、若四日、若五日、若六日、若七

日、一心不亂、其人臨命終時、阿彌陀佛、與諸聖衆、現在其前。是人終時、心不顛倒、即得往生、阿彌陀佛、極樂國

土。

(『佛説阿彌陀經』大正新脩大藏經 p.347 No. 0366 Vol. 12

 

舍利弗よ、もし善良なものが、阿弥陀仏の名号を聞き、その名号を心にとどめ、あるいは一日、あるいは二日、ある

いは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日の間、一心に思いを乱さないなら、その人が

命を終えようとするときに、阿弥陀仏が多くの聖者たちとともにその前に現れてくださるのである。そこでその人が

いよいよ命を終えるとき、心が乱れ惑うことなく、ただちに阿弥陀仏の極楽世界に生れることができる。

(『浄土三部経(現代語版)』p.223 浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 2012年)

 

理由その2

 

親鸞の思想、著作は浄土三部経が背景にある以上、親鸞における浄土理解は当然来世のものとなる。親鸞の著作において、往生が来世としか判断できないものはいくらでもあるが、現世としか判断できない記述は一つもみられない。後に述べるように、あったとしても誤読に基づくものである。来世往生としか判断できない記述は『浄土往生は死後か否か』の「第二章 親鸞の往生理解」で述べた。ここでは、その中でもっともはっきりと死後往生が示されている箇所を一つだけ挙げる。

 

ツノトノ三郎トイフハ。武藏國ノ住人也。オホコ・シノヤ・ツノト。コノ三人ハ。聖人根本ノ弟子ナリ。ツノトハ生

年八十一ニテ。自害シテ。メテタク往生ヲトケタリケリ。故聖人往生ノトシトテ。シシタリケル。モシ正月二十五日

ナトニテヤアリケム。コマカニタツネ記スヘシ

(『西方指南抄』大正新脩大藏經 p.909 No. 2674 Vol.. 83

 

つのとの三郎は、武蔵国の住人である。おおご・しのや・つのと、の三人は源空聖人の本からの弟子である。つのと

の三郎は八十一歳で、自害してめでたく往生を遂げた。故聖人の御往生の年齢であるから、と言って、自ら死を選ん

だのである。あるいは聖人の命日の正月二十五日あたりであったのかも知れない。詳しく聞いて書き付けようと思

う。

(『親鸞「西方指南抄」現代語訳』p.292 新井俊一 春秋社 2016年)

 

親鸞が自死[1]を容認している興味深い記述であるが、往生は現世だと考えているとは思えない。

 

理由その3

 

大谷派において、昭和の末期までは来世往生が正統派だった。そのことについては、『浄土往生は死後か否か』の「第四章 変質したお東の教義」で述べた。ここでは、大谷派の教学者の暁烏敏氏の了解を述べる。

 

この他力で浄土に往生するという道は、現在この肉身が仏になるというものではなく、この世では光明摂取の中にお

いていただいて、死後には、仏の御国にうまれて、仏果の悟りを開くというのである。

(『歎異抄講話』p.416 講談社学術文庫)

 

理由その4

 

現世往生を説くのは浄土真宗の中で大谷派だけであるから。ここでは本願寺派のウェブページの記述を示す。

 

浄土真宗の教えとは?

阿弥陀仏(あみだぶつ)のはたらきによって信心を恵まれ、念仏する人生を歩みます。この世の縁が尽きる時、浄土

に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教え導きます。

http://www.hongwanji.or.jp/faq/

 

理由その5

 

親鸞の師である法然は浄土は来世往生と了解しているから。師である法然の教えとは異なる了解を親鸞がすることはあり得ない。法然著作の『選択本願念仏集』を引用すると

 

念佛是即勝行。故引分陀利以爲其喩。譬・意應知。加之念佛行者觀音勢至如影與形暫不捨離。餘行不爾又念佛者捨命

已後決定往生極樂世界。餘行不定。凡流五種嘉譽。蒙二尊影護。此是現益也。亦往生淨土乃至成佛。此是當益也

(大正新脩大藏經 p.14 No. 2608 Vol.. 83

 

念仏は最勝の行であり、それゆえに花のなかの花である芬陀利華をもって譬えとされた。その譬えの意味をよくよく

理解しなければならない。それだけではない。念仏の行者を観音・勢至の両菩薩が影と形とのごとく付き従って、少

しの間でも行者を見捨てたり離れたりすることがない。諸行ではこういうことはない。また念仏する者は、命終えた

後、かならず極楽世界に往生する。諸行ではそれが定まっていない。念仏の行者に対して五つの褒め言葉を与えると

か、観音・勢至菩薩が影のごとくに付き従うということは、現世での利益である。また浄土に往生してから、やがて

仏となる。これは来世での利益である

(『選択本願念仏集 法然の教え』p.118 阿満利麿 角川ソフィア文庫 2007年)

 

 私が親鸞の浄土往生は来世だと考えるのは、上記の五つの理由による。では、『浄土往生は死後か否か』に寄せられた反論を検討してみようと思う。

 

 

 

第二章 『浄土往生は死後か否か』に寄せられた反論

 

 

 拙稿に寄せられた反論は、誤読に基づくものか、寺川俊昭氏や曽我量深氏といった一教学者の往生論であり、親鸞の往生論とは言えないものばかりであった[2]。まずはじめに、もっとも多かった、親鸞が現世往生を述べた根拠とされる次の文章を検討してみよう。

 

  臨終マツコトナシ。來迎タノムコトナシ。信心ノサタマルトキ往生マタサタマルナリ。

(大正新脩大藏經 p.711 No.2659 Vol.83

 

 親鸞の消息(手紙)のこの箇所は大谷派の僧侶では知らない人はいないくらい有名な文章ではないだろうか。なぜなら、親鸞が来世往生を否定した根拠として、必ずと言っていいほど提示されるからである。一見、来世往生を否定しているとしか思えない文章でも、正確に解読すれば、親鸞にそのような意図は全くないことが判明する。まず、臨終という言葉は人の死を意味しない。臨終とは、終(死)に臨むのであり、死の間際であり、死んではいない。我々現代人が臨終を死だと考えてしまうのは、ドラマや映画において、人が亡くなる時に医師がご臨終ですというシーンを見ているからである。親鸞は後世に意味の変化する言葉で用いているはずはなく、臨終の本来の意味である、死の間際としか了解していない。すると、この文章は、「信心が定まる時に、往生が定まるのであるから、死の間際(臨終)まで待つ必要がない」と言っているのである[3]。では、何を待つのかというと、往生が定まることである。よりわかりやすく説明すると、「平生に信心が定まれば往生が定まるのであるから、死の間際に往生が定まるのを待つ必要がない」と言っているのである。親鸞が意図しているのは、大谷派で了解されている往生する時期ではなく、往生することが決定する時期なのである。では、信心が定まることが、往生決定の条件であるならば、臨終時に信心が定まることは可能なのだろうか。死の間際で意識が朦朧としている状態でそのようなことが可能とは思えない。では、臨終時における往生決定の条件は何かということが問題になるが、実はこの文章には続きがあって、「來迎ノ儀則ヲマタス。」と続くのである[4]。平生に信心が定まれば、往生が定まるのであるから来迎の儀式は必要ない。ということは、信心が定まっていない人が臨終時に往生が定まるには来迎の儀式[5]が必要ということである。

 

ここで、今まで述べたことを簡単にまとめると

 

往生決定の時期    往生決定の条件    

平生         信心が定まる(蓮如の御文では信心獲得)

臨終         来迎の儀式

 

 親鸞が前者を重要視しているのは言うまでもない。では、次に来迎ということについて考えてみよう。来迎とは、臨終時に阿弥陀仏にお迎えに来てもらうことである。臨終と来迎という言葉によって示されているのは、実はこれは阿弥陀仏の四十八願における十九願なのである。来迎の儀式は、十九願の諸功徳にあたる。

 

設我得佛。十方衆生發菩提心修諸功徳。至心發願欲生我國。臨壽終時。假令不與 大衆圍遶現其人前者。不取正覺

(『佛説無量壽經』大正新脩大藏經p.268 No.0360 Vol.12)

 

わたしが仏になるとき、すべての人々がさとりを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生

れたいと願うなら、命を終えようとするときわたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうで

なければ、わたしは決してさとりを開きません。

(前掲『浄土三部経(現代語版)』p.29

 

 臨終時の往生決定が十九願であるとすると、平生時の往生決定は当然十八願となる。

 

設我得佛。十方衆生至心信樂。欲生我國 乃至十念。若不生者不取正覺。唯除五逆 誹謗正法

(『佛説無量壽經』大正新脩大藏經p.268 No.0360 Vol.12)

 

わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、も

し生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを

謗るものだけは除かれます。

(前掲『浄土三部経(現代語版)』p.29

 

結局の所、この消息によって、親鸞は十九願より十八願を重視していたことが示されているのである[6]。親鸞の消息は往生する時期について述べられたものではないし、来世往生を否定した文章ではない。来世に往生することが決定する時期について述べられたものである。

 

「三願転入を考えれば、十八願は現世往生なのではないか」という意見もいくつか頂いた。これは、おそらく寺川俊昭氏の説が基になっていると思うが、寺川氏は立論方法そのものに問題があり、寺川氏個人の往生論にはなりえても、それは親鸞の往生論ではない。浄土経典はもとより親鸞の著作においては、往生が来世としか判断できないものはいくらでもある。その一方で、来世の往生を否定したり、現世往生としか判断できないものは一つもない。仮にあったとしても、先の消息のように誤読である。そうであるから、往生が現世と解釈が可能な部分があったとしても、そこをもって親鸞は現世往生を説いたと理解してはならない。来世往生としか判断できない多くの箇所と整合性がつかなくなってしまうからである。寺川氏に対して、こういった批判はすでになされている。

 

親鸞における往生が現世往生であると主張するならば、親鸞の著作中、明確に命終を契機とする往生が説示されてい

る文をどのように理解するべきなのかを論じる必要がある。しかしながら寺川氏の論には、命終を契機とする往生が

説示されている文についての言及は全く見られない。結局、自らの立論に都合の良い文のみを取り上げ、都合の悪い

文を無視している(略)。自らの思いに合致する親鸞の言葉のみに耳を傾け、自らの思いに合致しない親鸞の言葉に

は耳を傾けないのでは謙虚な姿勢とはいえず、自らの思いを親鸞の言葉よりも重んじる傲慢な姿勢との批判を甘受せ

ざるをえないのではないかと思われる。

(『親鸞の往生思想』p.346 内藤知康 法蔵館 20189月)

 

この書籍は最近のものであるが、もとになっている論文は「親鸞聖人における往生」(『真宗研究』第四十五輯、平成十三年一月)であって、十八年前に既に批判がなされている。寺川氏は反論か自説の撤回をすべきなのだが、どちらもなされなかったようである。反論しない以上、内藤氏の見解に従ったと見做される(学者の世界では論文を読んでいないは通用しない)。この内藤氏による批判は、寺川氏個人になされたものではあるものの、来世往生を否定し、現世往生を主張する教学者にも当然当てはまる。内藤氏の批判に対してどう答えるのであろうか。

 

浄土経典及び、浄土の聖教において、浄土は死後の世界としか説かれていない。にもかかわらず、現世往生という教えが支持されるのは、『浄土往生は死後か否か』「第五章 お東が現世往生になったのはなぜか」において説明したように、現代人の感覚で聖教を読んでいるからである。現代人の感覚に従えば、西方何兆光年の遥か彼方に浄土という世界があるとは思えないし、また、死ななければ行けないという世界は受け入れられ難いというのも当然だと思う。そこで、死後の浄土が信じられず、現世のものと理解したのだろう[7]。しかし、親鸞は現代人の感覚を持ち合わせてはいないし、死生観からして現代人とは異なっている。例えば、輪廻転生は親鸞の時代では当然のことと了解されていた[8]。輪廻転生に関する文章はいくらでも出てくるが、二つほど例を上げると、

 

悲哉垢障凡愚。自從無際已來。助正間雜。定散心雜故。出離無其期。自度流轉輪回。超過微塵劫。叵歸佛願力。叵入

大信海。

(『教行信証』化身土巻 大正新脩大藏經p. 632 No. 2646 Vol.83

 

一。親鸞ハ父母ノ孝養ノタメトテ。一返ニテモ念佛マウシタルコト未タサフラハス。ソノユヘハ。一切ノ有情ハ皆モ

テ世世生生ノ父母兄弟ナリ。イツレモイツレモ。コノ順次生ニ佛ニナリテ助ケサフラフヘキナリ。ワカチカラニテハ

ケム善ニテモサフラハハコソ。念佛ヲ迴向シテ父母ヲモタスケサフラメ。タタ自力ヲステテ。イソキ淨土ノサトリヲ

ヒラキナハ。六道四生ノアヒタ。イツレノ業苦ニシツメリトモ。神通方便ヲモテ。マツ有縁ヲ度スヘキナリト云云

   (『歎異抄』五章 大正新脩大藏經p.728 No. 2661 Vol.83

 

 親鸞は、輪廻転生が常識の世界で生きていたのであり、輪廻の輪から抜け出すには仏になるしかないと考えていたのである[9]。しかし、二十年に及ぶ比叡山での修行においてもそれは実現しなかった。このままでは、生まれ変わりを繰り返し、六道輪廻を永遠に抜け出すことが出来ないという絶望感があったに違いない。そこで、自分の力ではもはや成仏の道は有り得ないとの自覚から、全てを阿弥陀仏に委ねたのである。阿弥陀仏を信じれば、最期は浄土に生まれさせてもらえる。そして、浄土において仏になることが出来るという教えを浄土経典に見出したのである。では、いつ浄土に生まれるかという時期が問題になるわけだが、浄土経典に明確に述べられてるとおり、命終後なのである。親鸞が所依の経典とする浄土経典を勝手に解釈して、現世で往生すると考える事自体ありえないではないか[10]

 

浄土往生は死後のことであるならば、浄土真宗は生きている人の為の教えではないのではないかと思われる人がいるかもしれないが、そうではない。現世の利益があることが『教行信証』に説かれていることを指摘しておこう。

 

  獲得金剛眞心者。横超五趣八難道。必獲現生十種益。何者爲十。一者冥衆護持益。二者至徳具足益。三者轉惡成善益。四者諸佛護念益。五者諸佛稱讃益。 六者心光常護益。七者心多歡喜益。八者知恩報徳益。九者常行大悲益。十者入正定聚益也。

(『教行信証』信巻 大正新脩大藏經p. 607 No.2646 Vol.83)

 

この箇所は、経典や聖教からの引用ではなく、親鸞自身の釈であるから、浄土真宗において重要な教えであることは言うまでもない。ここに述べられているのは、念仏者の現世の利益であり、死後に浄土に往生する来世の利益とは明確に区別されている。誤解されがちなのが、十の入正定聚益である。これは、往生することが決定することであり、往生することではない。現代人の感覚ではなかなか理解しにくいかもしれないが、往生するのはあくまで来世なのである。往生決定と往生の違いを卑近な例で例えると、合格通知と入学だろうか。合格通知が届いたからといって入学したわけではない。年度が変わって(来世になって)後に入学するのである。この、現世と来世の利益を明確に区別するのが浄土教の本質であり、先に引用した法然の『選択本願念仏集』においても、「蒙二尊影護。此是現益也。亦往生淨土乃至成佛。此是當益也」とあるように、現益(現世の利益)と當益(来世の利益)を区別している。また、先に引用した暁烏敏氏の文章においても、「この世では光明摂取の中においていただいて、死後には、仏の御国にうまれて、仏果の悟りを開く」と、現世と来世の利益の違いが示されている。現代人の感覚にしたがって死後の浄土往生を合理的理由により排除してしまうと、現世だけの利益だけになってしまい、浄土真宗ではなくなってしまうのではないのか。合理的な理由から死後の浄土往生が認められないのは、結局のところ、信仰心の問題に行き着くのではないだろうか。

 

 

おわりに

 

 

私はかつて、本願寺派の僧侶に、大谷派の僧侶で来世の浄土を信じてる人は少なく、往生は現世と捉えてる僧侶がほとんどかもしれないということを伝えたら、それでは浄土門ではなく聖道門ではないか。大谷派は真宗聖典[11]は読まないのかと言われて答えに窮してしまった。真宗聖典を普通に読めば、親鸞は浄土を来世としてしか了解していないのだから、読んでいないと思われても仕方がないのかもしれない。この時に、想起したのが臨済宗の僧侶である一休の一句である。『阿弥陀経』の「従是西方、過十万億仏土、有世界、名曰極楽」の文章を見て

 

「極楽は、十万億土と説くならば、足腰立たぬ、婆は行けまじ」

 

と詠む。一休は、遥か彼方に別世界があるとは考えない。座禅瞑想して心のありようによって(自力)、浄土を現世に見出すのである。この句に対して、一休と親交のあった蓮如は次のように返す。

 

 「極楽は、十万億土と説くなれど、近道すれば、南無のひと声」

 

すぐに浄土に行けると言っている以上、その浄土は現世ではない。現在は行っていないのだから。阿弥陀仏にお任せして(他力)蓮如は浄土を来世と捉えているのである(『浄土往生は死後か否か』「第三章 蓮如の往生理解」で述べた)。現代の大谷派の了解はどちらに近いのだろうか。

 

最後に、私自身の浄土の了解を述べると、私は現代人の感覚でしか了解できないので、西方に浄土があるとは思えないし、死後に行く世界とも考えられない。私は、蓮如の句より、一休の句の方に理解を示してしまう。浄土真宗の教えの要を一語で表現すれば、「(阿弥陀仏に対する)信」である。私は浄土教がいかに信じることが難しい教えであるかを実感している。『阿弥陀経』には「難信之法」と説かれ、親鸞自身も「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」と受け止める。私は信心が定まっていない以上、往生は定まっていないと思う。そうであるから、浄土真宗の信徒としてはふさわしくないと感じる。

 

 

御意見、御批判等は拙サイトの意見送信欄かメールでお願いします。

http://kichun.kitunebi.com/

aab90280@pop13.odn.ne.jp

 



 

[1] 仏教において、殺生は厳しく戒められるが、自死に対してはそうではない。それどころか、『ジャータカ物語』(釈尊の前世物語)における捨身飼虎のように、自分の命を捨てて他者を生かす行為は菩薩行という善行になることもある。ちなみに、キリスト教では自死は神から頂いた命を損なう許されない行為であり、葬儀が行われたとしても、聖職者が立ち会うことはない。この神から与えられた命を損なってはいけないという考え方がキリスト教圏における死刑廃止の背景にある。日本で死刑制度が廃止されないのは、キリスト教の神から授かった命という概念がなく、仏教の自業自得の考えが強いからだと思う。

 

[2] 曽我量深氏は、一時期、往生は現世のものと考えておられたが、最晩年にはお考えを改められ、金子大栄氏の来世往生が正しいと了解された。

 

わたしは金子先生のお話は長い間わかりませんでした。いま、やっと、少しばかりわかりました。〈略〉・・・・・・それで、まあ、金子先生からして、“彼岸の世界”ということ、ずっと昔からお聞きしておるのでありますけれども、それがなかなか、鈍根の機でありまするからして、よくいただかれないで、それが、このごろ、やっと、いろいろ少しばかりわからしていただきまして、未来の安楽浄土、自然法爾の世界・・・・・・南無阿弥陀仏。

(『金子大栄著作集 別巻三 真宗の教義と其の歴史』p.345 春秋社、201511 KINOKUNIYA WEB STORE

 

[3] 来迎については後に述べる。可能な限り文章を単純化したほうが理解しやすいため。

 

[4] この文章が引用される場合、なぜか「来迎の儀式をまたず」の文章が削除されて不完全な文章になってしまっている。教学者の長谷正當氏も「親鸞の説く往生は現生」『ここがわからん浄土真宗』(大法輪編集部[編] 大法輪閣  2019年)において、その文章を削除して、往生は現世のものと理解しておられる。後に述べるように、そのような内容ではない。

 

[5] 来迎の儀式とは、臨終時に指と阿弥陀仏の木像を五色の糸で結ぶ儀式である。親鸞著作の『西方指南抄』において法然の臨終時の様子が描かれている。

 

マタ御弟子トモ。臨終ノレウノ佛ノ御手ニ。五色ノイトヲカケテ。コノヨシヲ申侍リケレハ。聖人コレハオホヤウノ

コトノイハレソ。カナラスシモサルヘカラストソ。ノタマヒケル

(大正新脩大藏經 p.870 No. 2674 Vol. 83

 

また弟子たちが、臨終の時に据える仏像の手に五色の糸をかけて、それを聖人の手に結びつける準備ができましたと

申し上げると、聖人は、「これは世間一般のやり方であって、必ずしもそれに従わなくてもよい」と仰った。

(『親鸞「西方指南抄」現代語訳』p.292

 

 法然と親鸞の往生理解は同じであるから、当然このような儀式は必要としない。往生することはすでに定まっていると確信しているからである。親鸞と法然は流罪以後出会った記録はないので、法然の臨終に立ち会った弟子から伝え聞いたのであろう。

 

[6] 来迎の儀式が必要な十九願往生は、極めて危なっかしい往生方法だと思う。突然死には全く対応できない。心筋梗塞や脳卒中といった病気や、落馬といった事故、辻斬りのような事件には、来迎儀式が間に合わず、地獄行きということもありうるのである。現代人からみればばかばかしいと思われることでも、当時には当時の常識があったことには留意せねばならない。

 

[7] キリスト教において、神は人間を創造したという聖書の記述が信じられなくて、人間は猿から進化したと考えるようなもので、当然それはキリスト教徒ではない。

 

[8] 日本人が輪廻転生の世界観を信じていたのはいつごろまでだろうか。戦時下において七生報国という思想があったことを考えると、昭和の中期ごろまでだろうか。あるいは、現在でも葬儀の後に初七日法要や、満中陰法要が営まれることを考慮すれば、現在でも完全には否定されてはいないのではないかと思う。

 

[9] この仏になるという考えも現代人の感覚ではなかなか理解できないと思う。もし、仏になりたいかと問われれば、ほとんどの人は拒絶するのではないだろうか。この場合の仏の意味は死者と了解されるからである。しかし、その一方で、亡くなった人に対しては、迷わず成仏して欲しいと普通に願う。すると、現代人にも、輪廻という考え方が受け入れられており、仏になることが死後のことであるとの了解もあるのではないかと思う。

 

[10] もし、親鸞が現世往生を考えていたなら、現世に浄土を見出す『般若経』や『華厳経』等を所依の経典としていたはずである。死後往生しか説かれていない浄土経典を所依の経典として、なおかつ現世往生として了解することは論理的ではない。仏教学者の櫻部建氏は現世往生説に対して、次のように述べる

 

「聖人が現世往生のような愚かなことを説かれるはずがない」

  「聖人においては往生は成仏と等しいから、現世で往生するのであれば、その人は仏になっていなければならない

が、そんな人を見たことがありますか」

(『真宗の往生論』p.ⅰ 小谷信千代 法蔵館 2015年)

 

[11] 本願寺派と大谷派にそれぞれ真宗聖典がある。収録されている聖教はそれほど異ならないが、使い勝手はぜんぜん違う。本願寺派は2004年に大改訂し、脚註約8800語、巻末註約900語、索引用語約11000語が追加され、そのまま読んでも理解できる。一方、大谷派は1978年以来一度も改定していないので、読むのに仏教語辞典や漢和辞典が必要となる。購入するなら本願寺派のほうがいいと思う。

 


 

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