No.8 『法華経』とはいかなる経典か

 

 はじめに


 『法華経』は多くの人々に信奉され、救済をもたらした偉大な経典の一つであることは疑いがない。ここでは、『法華経』とはいかなる経典かということを示すにあたり、二つの点から論じてみることにする。
 

一つ目は『法華経』が最も主張しようとしていることは何であるかということである。『法華経』には、一仏乗の教えであったり、久遠実成の釈迦仏、あるいは多くの宗派が所依の経典とする『観音経』も内包し、重要な仏教教理を多く含んでいる。ここでは、そういった個々の教理ではなく、『法華経』を一言で言い表したら何かということを問題にする。
 『金剛般若経』や『般若心経』といった般若系の経典は「全ての存在(目に見える色や形だけでなく、目に見えない感情や感覚も含む)は空」であると説き、一言で言えば「一切空」である。
 『無量寿経』や『観無量寿経』といった浄土系の経典は「阿弥陀仏を信じて念仏を称えることによって浄土に往生する」と説き、一言で言えば「念仏往生」である。
 では、『法華経』を一言で言えば何かということを示そうと思う。

 二つ目は、『法華経』は全ての経典の中で最高の経典(極論すれば唯一の経典)であるのか?ということである。一般的にどのような宗派であれ、自宗派が拠り所とする経典が最高だと捉えるのは当然であり、さらに他の経典にも同じ仏典としてそれなりの敬意をはらうものである。ところが、『法華経』信奉者の一部ではあるものの、『法華経』以外は経典ではないと捉える人達がいる。日蓮宗であったり、日蓮系の流れをくむ創価学会がそれにあたる。日蓮の唱えた四箇格言「念仏無間(地獄)、禅天魔、真言亡国、律国賊」に示されているように、『法華経』以外の教えは仏教でないどころか、邪教扱いである。もちろん、現在においては、日蓮宗、創価学会でも、ここまで極端な考え方の人はごく一部には違いないが、ここではそのことについて論じてみたいと思う。


第一章 『法華経』を一言で言えば?

 

結論を先に述べると「法華経最高」である。『法華経』が全ての経典の中で最も優れた教えであると説くのが『法華経』なのである。私自身、『法華経』は三車火宅や化城宝処といった有名所の部分部分しか読んだことがなかった。今回、経の主眼点は何かを解明するにあたり、全二十八品を読んでみたわけだが、最初から最後まで、『法華経』絶賛の嵐。素晴らしい『法華経』をお釈迦様が説くことを聞きつけて、数え切れない仏・菩薩たちが全ての他方世界から聞きに来るエピソードや、「私(お釈迦様)はいままで様々な教えを説いたが、これから私が説く『法華経』を聞かないものは本当の悟りを得ることはできない」というような表現まで出てくる。読み進めていくうちに、そのような素晴らしい教えは一体どういった内容のものかと期待して読み進めた結果、なんと最後まで素晴らしいとしか言ってないではないか。それどころか、「『法華経』は、素晴らしい経典であるから、経典内の一文、一偈でも大切にし、唱えたり、それを人に伝えるなら、その人が得る功徳は計り知れない」とまで説く[i]。ここに至っては、『法華経』は最高なんだから、そこから得られる功徳まで当然ということが『法華経』に説かれるといういささか奇妙なことになっている。

 

結局、『法華経』が素晴らしいということは説かれていても、なぜ素晴らしいのかという理由がわからず、私自身の読み方がおかしいんじゃないかと思い、光明寺さんに伺ったところ、昔から法華経無内容説ってあるよって教えていただいた。そこで、ネットで調べたところ、私と同じ意見の人が意外に多くて驚いた[ii]

 
 ところが、その一方で、現実には極めて多くの人々が『法華経』によって救われているのである。この違いは一体なにかといえば、実は難しい問題ではない。そこに信仰があるかないかの違いなのである。
 信仰のないものが『法華経』を読んでも、なんで?としか思わない。ところが、そこに信仰があれば、「『法華経』は最高の教えだと書いてある。自分自身それを信じているし最高の教えなのだ」と受け止め、そこに自己の救済が認められるのならば、それは宗教として正しいあり方といえる。なぜかといえば、本来、宗教とはその教えに対してどう主体的に向き合うかが重要だからである。何が書かれているかではなく、何をどう信じるかが宗教の本質的なあり方なのである。

他の宗派の例を取ってみると、浄土系の場合、「念仏往生」がその根幹にある。経典をそのまま読めば、阿弥陀仏に身を任せて、念仏を称えることによって浄土に往生することができるとされるが、そこに信仰がなければ、浄土?念仏?そんな世界、原理なんてあるわけがないと判断するだろう。それと同じである。

次に他の宗教として、キリスト教を挙げてみよう。合理的な思考をする科学者であっても、クリスチャンに世界はどうやって出来たか、人類はどうして誕生したかと聞けば、神が創造したと答え、その理由を聞けば、『聖書』に書いてあるからと答える筈である。同じ質問をイスラム教徒にすれば、神が創造したと答え、理由は『コーラン』に書いてあるからだとなるだろう。創造主を認めない日本人からしてみたら、とても信じられないことであり、ここでも信仰の有無が問題になる。つまり、『法華経』に書いてあるから、『聖書』や『コーラン』に書いてあるからという信仰の理由は、そこに主体的な信仰があるかぎりにおいて妥当のものとなり、教義そのものが救済の原理になりうるのである。
 それでは、『法華経』の教えを一言で言うと「法華経最高」であるとして、本当にそうなのかを次に述べていこうと思う。

 

 

第二章 全ての経典の中で『法華経』は最高の経典であるのか?
 

 

これは、「教証」と「理証」という仏教の伝統的な手法によって確かめてみようと思う。先ず、その教義が正しいかどうかは、経典にきちんと説かれていることが前提となる。これが教えによる証明、「教証」である。書いてない教えを捏造してはいけない。また、経典に説かれているからといって必ずしも正しいとは限らない。道理として妥当かどうかを証明することが「理証」となる。経典に書いてあっても、それが正しくないとされるのは、たとえばそれが方便であったりするからである。
 

先ず、「教証」から。『法華経』が最高の教えであることは、『法華経』内において、繰り返し何度も出てくるので、敢えて例を挙げるまでもないと思うが、一応、二例ほど挙げてみることにする。

   

從始至今 廣説諸經 而於其中 此經第一

(大正新脩大藏經テキストデータベース T0262_.09.0034b11

 

わたしは悟りを開いてから、こんにちにいたるまでずっと、数かぎりない仏国土において、 いろいろな経典を説いてきました。そのなかでも、この法華経こそ、最高の経典なのです。

(『現代日本語訳 法華経』正木 晃 著 春秋社刊 見宝塔品)

 

文殊師利。此法華經。是諸如來第一之説。於諸説中最爲甚深。(略)諸佛如來祕密之藏。於諸經中最在其上。

(大正新脩大藏經テキストデータベース T0262_.09.0034b11

 

文殊師利菩薩さん。この法華経こそ、もろもろの如来たちがお説きになった教えのなかでも、最高の教えであり、これほど深遠な教えはほかにありません。(略)如来たちが秘蔵してきた教えです。ありとあらゆる経典のなかで、最高の経典なのです。

(『現代日本語訳 法華経』 安楽行品)

 

きちんと経典に説かれているので、法華経は全ての経典の中で最高の経典であることは、「教証」としては充分成り立つ。一般的に経典は、その経典独自の教えを説き、その教えは最高だと誉め称えることは普通にある。ところが、『法華経』の場合、それだけにとどまらず、他の経典よりも素晴らしいとまで説く[iii]から、独善的で排他的になり、これが他宗派との悶着の一因にもなるのだが[iv]、それはさて置き、次は「理証」について見てみよう。

 

ここでは「理証」ではどうか述べることにする。お釈迦様は、実に多くの教えを説いた。八万四千の法門とも喩えられ、日本に伝わった経典はおよそ3000もある。では、なぜそれだけ多くの教えを説いたかといえば、人の悩みや苦しみの種類は多くあるからである。それぞれの人に対して、それに応じて必要な教えを説いた(対機説法)から、多くの教えが生まれたのである。浄土往生を願う人には、念仏の教え[v]。執着心が苦しみの原因になっている人には空の教えといった具合に。そうであるから、浄土往生を願う人に空の教えを説いたり、執着心が苦しみの原因になっている人に念仏の教えを説いたところで、無意味であるどころか、余計な混乱を招くことすらあり得る。それと同じく、『法華経』が最高の教えであるとしても、浄土往生を願う人や執着心が苦しみの原因になっている人に対して『法華経』を説いても、救済たりえないのは自明の理である[vi]

このことは病気に対する薬で喩えてみるとわかりやすいかもしれない[vii]。『法華経』を抗癌剤とする。癌患者にとっては抗癌剤は薬になる。でも、心臓病や脳梗塞といった病気には全く役に立たないどころか毒物である。それと同じである。念仏であろうが、題目であろうが、必要な人には必要なだけで、それ以上でもそれ以下のものではないと思う。以前、お念仏の教えを知らない人は可哀想と言った人がいた。特に何も答えなかったが、その時、それは違うんじゃないのかと思った憶えがある。なぜならば、必要のない人には必要ないからである。たいした病気もしないまま、一生を過ごす人は大勢いる。そういった人達には薬は必要ないのと同じことなのである。

 「理証」という観点から判断すると、『法華経』は他の経典と較べて最高の経典であるかと言えば、それは「必要な人にとっては」であり、突き詰めて言えば、「信仰者にとっては」という限定的なものである。

 

 改めて言えば、「教証」と「理証」から判断すると、『法華経』は信仰者にとっては最高の経典であるが、そうでない人には該当しないということになる。

 

 

 

おわりに

 

 

 『法華経』とはどういった経典であるかは、既に示したので、ここでは繰り返さない。

 ここでは、私自身の念仏と題目の経験について述べていこうと思う。これは、実を言うと書くのが少し躊躇われる内容であるが、触れないとフェアではないし、さらに書くべき内容でもあるので、以下述べることにする。

私はかつて、浄土系のO谷大学に通っていた。そこには学生寮があり、主に寺院の子弟が生活するが、一般家庭の子も何人かいた。寮生活では朝晩勤行があり、日常的に念仏を称える生活を送る。卒業後、何年か経って、一般家庭の子のY君とたまたま遭う機会があり、一緒に食事をした。彼は法華系の教団に入信し、毎日朝晩、題目を唱える生活をしていると聞いて、かなり驚いた。寮生活は、勤行で念仏を称えることが日常になるものの、それは規則だからやっていただけで、主体的なものではなかったからだ。彼は卒業後、寺ではなく一般の仕事に就いたので宗教的な生活とは全く無縁になった。そのような環境で、なぜ法華系の教団に入信したのか理由を聞いてみると、マンションの住人との付き合いでしかたがなく、お金もたいしてかからないからという安易な気持ちからという。それなのに、なぜ進んで朝晩、題目を唱えるようになったのかを聞いたところ、「お題目はすごいですよ、子供の頃から自律神経失調症に悩んでたんですけど、お題目を唱えるようになって完治したんです[viii]」と。敢えて合理的に考えてみると、人間の体調は、年齢、環境等、様々な要因によって左右される。たまたま病気が治る時期に題目を唱えていただけで、題目が治したわけではないのではないか。だが、そういった説明はあまり意味があるとも思えない。なぜならば、彼は彼なりに題目を救いの手段としてとらえ、日々の生活の支えとしているのなら、彼の人生にとってそれは意味のあることに違いないからだ。

 

念仏にしろ題目にせよ、それを必要な人が必要とする。それでいいのではないだろうか。もちろん、どちらか一方だけを選ぶべきものとも思えない。異なった病気には、異なった薬が必要なように、両方必要な人もいる。また、どちらも必要のない人は、それはそれでいいと思う。

 

(終わり)

 

間違いや不明な点がありましたら、メール等で助言いただけたら幸いに思いますaab90280@pop13.odn.ne.jp



 

[i] おそらく、これが題目信仰の根拠になっていると思う。つまり、『法華経』内の一言でも大切にすることによって功徳があるのだから、題目(経名)を唱えることは、『法華経』全体に南無(帰依)することであり、そこには最大の功徳があるに違いないというわけである。一般的な題目として、「南無法華経」ではなく、「南無妙法蓮華経」であるのは、『法華経』訳の中で、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が最も多くの人々に親しまれたからだと思う。 ちなみに、『法華経』内では、題目を唱えることについては一言も書かれていない。

 

[ii] http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/bukkyokirisuto11.htm
自画自賛の法華経

 つぎに、法華経の内容について見てみましょう。
 法華経には随所に、法華経自体に対する賛辞の言葉が記されています。たとえば、
 「私(シャカ)の滅後(死後)、この経を信じ、他者のために生き、努力するなどの行ないをする者は、その功徳は大空が地をおおうほどのものである」
 「人々の中にあって、もし法華経を信じ、あるいは読み、唱え、説き弘め、書写する者があれば、その眼、清浄にして八〇〇〇のすぐれた能力を獲得するであろう。その者は、全世界の何であれ、くまなく見ることができる。下は地獄から、上は神々の世界に至るまで、そのなかの一人一人の様子をも明らかに見る眼を持つであろう」。
 これらはほんの一部ですが、法華経自体が、法華経を信じる者に説いている功徳の例です。法華経は、こうした自画自賛に満ちているのです。『日蓮の本』(学研)と題する解説書には、こう記されています。
 「法華経には、常識的な考えではとんでもないような空想的な話が、次から次へと出てくる。それよりも不思議なのは、法華経というありがたい経典があると、法華経の中で説かれていること。遠い昔から多くの仏が説いてきた究極の経典が法華経であり、信じる者には無限の恩恵が与えられると、繰り返し語られている。
 しかし、そのありがたい法華経自身の中身は何かとなると、まったく語られていない。こういうのを自画自賛というのかも知れないが、法華経が法華経をほめちぎった経典が、いわゆる法華経という変なことになっているのである」。
 法華経の内容は、大部分が自画自賛で、肝心の中身はほとんどない、と感じた人々は昔から多くいました。これがいわゆる「法華経=無内容説」で、かつてそれを説いた一人に、平田篤胤(ひらたあつたね 神道家、一九世紀)がいます。
 彼は、法華経は"中身のない能書き"だと評しました。富永仲基(儒学者、一八世紀)も、
 「法華経は自画自賛ばかりで、教理らしきものがなく、経と名づけるに値しない」と言っています。

 

[iii]『法華経』のように、他の経典より優れているようなことを示す経典はないのかというと、私の知る限りにおいて一つある。それは、浄土経典の一つ『無量寿経』である。
  
  當來之世經道滅盡。
  我以慈悲哀愍。特留此經止住百歳。
  其有衆生値斯經者。隨意所願皆可得度

(大正新脩大藏經テキストデータベース  T0360_.12.0279a11


やがて将来、わたしが示したさまざまなさとりへの道はみな失われてしまうであろうが、
わたしは慈しみの心をもって哀れみ、特にこの教えだけをその後いつまでもとどめておこう。 
そしてこの教えに出会うものは、みな願いに応じて迷いの世界を離れることができるであろう

(『浄土三部経現代語版』本願寺出版社)

お釈迦様は、自分が説いた多くの教えが、時間とともに無くなっていっても、『無量寿経』だけは永遠に残しておこうと表明しているのである。このことをもって、『無量寿経』が他の経典より優れているとまで主張するつもりはないが、少なくとも、『法華経』を含む他の経典より劣った経典とはいえまい。

 

[iv] 鎌倉時代から戦国時代において、宗教団体は教義の違いから殺し合いをするまでになった。京都の山科本願寺が大阪の石山本願寺へ本拠地を移転したのも、日蓮宗が山科本願寺を破壊し尽くしたからである。こういった状態をみかねて行われたのが織田信長による安土宗論である。安土宗論とは、浄土宗と法華宗(日蓮宗の一派)による、公開宗教論争のことである。法華宗、浄土宗それぞれ3人、立会人は信長の弟信行を含む5人。判定者は臨済宗と法相宗の僧侶、在家の仏教者で行われた。その様子は『信長公記』に記録されており、作家の井沢元彦氏がわかりやすく訳しているので、一部略して以下に示す。

  浄土宗「(法華宗が絶対の教えとする)法華経の中に念仏という概念はあるか?」
  法華宗「もちろん、ある」
  浄土宗「ならば、なぜおまえたちは念仏は無間地獄に落ちる業(日蓮の言葉)だなどと、非難する

  のだ。おかしいではないか」
法華宗「では、聞くが、法華経に説いてある阿弥陀如来と、おまえたち浄土宗の説く阿弥陀如来は一体なのか、それとも別のものか?」
浄土宗「阿弥陀如来はどこにあろうと、一体に決まっている」
法華宗「ならば、なぜ浄土宗では念仏以外を捨閉閣抛(法然の言葉、念仏以外の行を捨てること、つまり阿弥陀如来も説いている法華経も捨てることになる)せよ、などと言うのだ」
浄土宗「捨閉閣抛とは、念仏を修する時余計なことを考えるな、という意味だ」
(略)
法華宗「無量義経という経典には、お釈迦様が四十年間修行したが、(法華経以前には)真実の悟りに達しなかったとある。だからそれ以前に説かれた経典(浄土教)は、方便で真実の悟りではない」
浄土宗「四十年間の修行の分は、法華経成立以前のことで真実の教えでないと主張するならば、『方座第四の妙』は捨てるのか、捨てないのか?」
法華宗「その妙とは四十年間の中のいずれの妙を指すのか?」
浄土宗「法華の妙だ。そんなことも知らないのか」
法華宗「ー」

ここで、法華宗は答えられず「閉口」し「無言」となった。
そこで「判者を始め、満座一同にどっと笑いて、袈裟を剥ぎ取」った(公記)ことによって、宗論は浄土宗側の勝ちとされたのである。袈裟を剥ぎ取るのは、勝った側の特権である。

(『逆説の日本史 10 戦国覇王編』 小学館
 

詳しい解説は前掲書を読んでいただくとして、なんだか現在でもありそうな論争である。敗れた法華宗は罰金26000両及び、詫び証文の提出。詫び証文には折伏(他の宗派に論戦をしかけて改宗をせまる行為。ちなみに、創価学会の折伏は社会問題化した)しないことが誓約させられている。

 

[v] 『観無量寿経』の中における、お釈迦様による韋提希夫人への説法が有名

 

[vi] 但し、『法華経』の「薬王菩薩本事品」には、女性が『法華経』を聞いて、教えの通り修行すれば、死後、阿弥陀仏の浄土に往生することが出来ると説く奇妙な箇所がある。もっとも、肝心の修行内容は説かれておらず、取ってつけた感じで、おそらく浄土経典の女人往生を意識して追加されたんだと思う。

 

[vii] お釈迦様の尊称の一つとして大医王というのがある。苦悩している人に対してそれに応じた説法をする事を、病人に必要な薬を処方する医者として見立てているのである。お釈迦様は治せない病気はないから偉大な医者の王様、大医王なのである。

 

[viii] 題目は現世利益的であり、現実的な願いを叶えてくださいという、いわば「請求書」とするならば、念仏はそれとは異なり、阿弥陀様に全てを委ねて結果を受け入れる「領収書」という見方ができるかもしれない。もっとも、そこに優劣をつける問題とも思えないが。

 

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